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2009年5月29日(金)第4,256回 例会

ー待つことの意味ー

鷲 田  清 一 氏

大阪大学
総 長
鷲 田  清 一 

1949年生まれ。’72年京都大学文学部卒業。’74年同文学研究科修士,’77年同博士課程終了。’78年関西大学専任講師,助教授を経て’88年教授,’92年大阪大学助教授,’96年教授,’07年大阪大学総長。研究分野:臨床哲学,倫理学。研究内容:臨床哲学の基礎付けに関する研究,所有論,他者論。主要著書:「九鬼周造の世界,時代のきしみ-〈わたし〉と国家のあいだ-」

 私たちの時代,私たちの社会というのは,知らない間に人はこんなに待てなくなったのか,あるいは社会はこんなに人を待ってくれなくなったのかという印象が年々色濃くなってきています。

出産,子育ても待てず

 近年テレビのコマーシャルの短い時間を待てなくなり,あるいは携帯電話やメール,インターネットの浸透で手紙の返事を待つという経験もしなくなりました。

 こういう話はまだ深刻ではないですが,子どもの誕生・出産が待てない,子育てが待てないというと,ちょっと困ったことになります。最近はほとんどのカップルが,子どもが誕生する前に子どもの性を既に知っている。ほとんどの人が誕生の瞬間を待ちわびるという感じではなくなってきている。

 子育てというのは,ちょっと道をそれても自分が気づくまで待ってやる,勝手に学んでいくのを待ってやるのが本来の教育だと思うのですが,少しでもイメージからそれる行動をすると,すぐ軌道修正に入る。子どもが自分で気づくまで待てないという親御さんが多くなっています。

 待てない,待たない社会になってきているわけですが,「待つ」ことと「期待する」ことを混同してはいけない。期待するというのは,待つの1つのあり方でしかないのです。「期待して待つ」というのは,実は人の意識・視野を狭めてしまうところがあります。

 私は柴田錬三郎の『宮本武蔵』が大好きなのですが,その中で「武蔵は待たせることで勝った」という表現があります。武蔵は佐々木小次郎を待たせた。待たせることが相手の視野をどんどん狭め,意識の余裕をなくしていくことを知り尽くした上での作戦だったわけです。

 待てば待つほど,待つこと以外に考えられなくなる。日本人は待つことのしんどさに対して細やかな感受性を持っていました。日本語は,待つことをめぐる言葉が多い。

 時を待つとかではなく,大事な人が自分から離れ,その人が帰ってくるのを待つのは,とりわけしんどいものです。期待して待つのは,人を待つときには最悪のやり方です。大事な人が戻ってきてほしいと願うときには,期待して待ってはいけない。ところが期待しないで待つというのは難しいものです。

 同じことがカウンセリングにも言えるわけで,相手の人に自分について語ってもらう,相手の話をしっかり聞くときには,本当に待てるかどうかがすべてです。その人が自分でしゃべり切らないといけないんです。聞き方で一番いけないのは「あなたの言いたいのは,こういうことじゃないの」と迎えにいってしまうことです。そうすると「アッ,そうだ」と簡単にその話に乗ってしまって,もう自分で語り切ることをしなくなるんです。大事なのは「聞き切る」,相手が自分の言葉で語り切るまで待つということです。

 ところが,私たちの社会では「待つ」ことが下手になっている。「待つ」辛抱ができなくなっている。その理由は非常に簡単で,私たちの近代社会,あるいは産業社会のメンタリティーというのが,待つことを全然評価しないで,むしろ,待ってないで取りにいく,未来の何かをつかみにいくということを,高く評価する社会になってきたからです。企業活動でも,できるだけ先のことを早く読んで,人より先に動くことが勝つ秘訣になるわけです。つまり,先を読む者が勝つ。

感応できる心の緩みを

 しかし,本当にクリエ-ティブな仕事というのは,視野が狭くなって何かをつかみに行ったら,絶対そういうクリエーションというのは起こらないんです。むしろ,心の足腰をフニャフニャ緩め,普段は視野に入っていない,チラッとした兆しでも感応できるような心の緩み,すき間というのを持っていないといけない。あるアイデアが突然,フッと浮かぶことがある。そういうものを自分が取り入れることができなければならないわけです。

 私も大体原稿は締切の日が来てから書き始めます。わざと書かないで寝かせるんです。そのことが頭の隅っこにあるため,普段だったら何も感じないような事柄に「これ,ひょっとしたらあのテーマに使えるな」とか,普段注目してないことが目に入ったりするんです。そういうものが集まってきて,締切日が来たあたりにフワーッとまとまって,それから大急ぎで書くわけです。

待たれている自分

 待つことのしんどさの中で,ある日フッと,自分が待たれているという反対の立場に目覚める時があります。自分が待つとばかりこだわっていたけど,ひょっとしたら自分は今まで誰かに待たれていたのではないかと思い至る瞬間があります。実は,これが英語のリスポンシビリティーの感覚なんです。「他人の求めや促し,呼びかけにいつでも応じる用意がある」という感覚です。

 今の若い人は,自分は一体何をしたいのかわからないと就職前に相談に来ますが,私は「自分が何をしたいかということから仕事を考えるのではなく,務めという感覚,つまり自分は何をするべく期待されているのか,待たれているのか,そういう感覚の中で自分はどんな仕事を選んだらいいかと考える。そういう考え方も必要じゃないんでしょうか」と学生さんには言っています。

 それほど今の仕事の中では,「務め」,あるいは「リスポンシビリティー」,自分は一体何に応えたらいいのか,応じたらいいのかという感覚が欠けてきているように思います。