昭和24年(1949年)3月9日Means君が突然、再び東京にやって来た。その目的は、日本ロータリー復帰承認が決議されたため、6月の国際大会までに復帰の手続きを終えるというものであった。これほど早急に復帰の話が進むとは、復帰協議会としても予想だにしないことであった。大阪は、3月17日復帰協議会からの電報でこのことを知るが、ここまでの話は予想していなかった。その翌日、東京から柏原孫左衛門君が至急やって来て、「東京は既に、16日に水曜クラブを解散して、23日には発会式を行う準備を整えたから、大阪も至急準備にかかられたい」というのである。そこで、緊急理事会を開き、25日の例会を臨時会員総会とし、大阪金曜会の解散、あわせて大阪ロータリークラブ設立に関する件を付議することとした。
臨時総会には、Means君、手島復帰協議会会長が出席した。里見会長は、大阪ロータリークラブ再建を前提として、大阪金曜会解散を告げ全員の異議無し賛成のなか、大阪金曜会は9年の歴史を閉じた。
以上の枠に基づき、各会員につき、逐一審査の結果金曜会会員98名中68名を適格者としてチャーターメンバーを決定、Means君の承認を得たのである。
昭和24年(1949年)3月日本ロータリーがRIに復帰し、第1次的に東京、大阪、京都、神戸、名古屋、福岡、札幌、の7クラブが承認されると、同年5月本部から、日本を第60区として指定して来た。区ができると直ちにガバナーが選ばれるのだが、時間の都合により、各クラブは協議の結果、東京クラブにガバナーノミニーの選択を一任した。そして、当時復帰協議会の会長であった手島知健君がガバナーノニミーに選ばれた。戦前とは違い、歴代ガバナーは規則通りの任務を強行している。その先駆をなしたのが手島ガバナーである。