昭和15年(1940年)11月15日大阪金曜会創立総会を挙げ、里見準備委員長座長となって規約並びに内規を承認、新理事選挙を行い、ついに大阪金曜会は成立した。
金曜会規約並びに内規は極めて簡略なものとしたが、その組織、機構はほとんどロータリーのそれと同じものである。 大阪金曜会は昭和15年(1940年)11月15日付をもって創立され、翌年の1月10日発会記念会が新大阪ホテルにおいて開催された。東京から米山梅吉君が来会、祝辞を述べられ、京都、神戸からも僚友列席わきあいあいのうちに記念会を終えた。 金曜会に切り替えてからは、外部からの圧迫は緩和された。それから1年余り、昭和16年(1941年)12月8日、ついに日米間に戦争の火蓋が切られると、金曜会としても戦時態勢に入らざるをえなかった。毎月の月始めの例会では宣戦の詔勅が朗読された。また、兵隊は閣下と呼ばれ、彼らの語る都合の良い戦況の話が多くなっていた。 昭和19年(1944年)3月付けで、当時の真島会長から会員あてに決戦態勢下の例会ついての通達が出されている。事実例会での話は、敗戦主義の言論はいっさいタブーとされるなど、話題が制限されていた。それでも、金曜会創立後1年間に23名もの新会員を加え、出席率も70%を維持していた。また、家族会も時々開かれ、陸海軍や傷病兵慰問のために見舞金の寄付がおこなわれた。しかし、戦況は悪化し敗戦をむかえたのである。例会記録も、昭和18年(1943年)8月から22年(1947年)2月まで約3年半程の間途絶えている。