日米関係が徐々に険悪となるにつれ、日本のロータリーは国際ロータリーから脱退を余儀なくされた。そこで、一時自発的に離脱してロータリーの名を避け、精神、組織はそのままに団体をつくることになった。大阪ロータリークラブは、昭和15年(1940年)8月国際ロータリーから脱退を決議し、新体制に基づき再組することとなった。先ず、その準備委員として里見純吉、岸本彦衛、前田忠、北澤敬二郎、湯浅恭三、露口四郎の諸君が委嘱され、新組織による団体の在り方について協議した。その間例会は「金曜午餐会」仮称の下に引き続き従来通り開催、ロータリー時代と変らぬ雰囲気の下に続けられた。