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2021年12月24日(金)第4,816回 例会

ゼネコンのルーツ
江戸幕府大工頭 中井大和守(なかいやまとのかみ)の仕事

谷    直 樹 氏

大阪市立大学 名誉教授 谷    直 樹 

1948年兵庫県生まれ。大手前高等学校卒業,京都大学工学部建築学科,同大学院工学研究科修了。堺市博物館主任研究員を経て,’82年大阪市立大学生活科学部講師,’90年同助教授,’96年同教授。同大学大学院生活科学研究科長,文化交流センター所長を兼任し,2013年退職と同時に名誉教授。’21年3月末まで大阪くらしの今昔館館長。

 今年3月まで「大阪くらしの今昔館」の館長を20年ほど務めていました。本日は,その間にいろいろと勉強したことを中心にお話をしたいと思います。今昔館は2001年に開館し,「住まい」「暮らし」「まちづくり」をキーワードに,様々な展覧会を開催しております。「中井大和守の仕事」という展覧会も何回か開催していますが,「中井大和守」という人物に皆さんあまりピンとこないかもわかりません。江戸時代,この関西で江戸幕府の大工頭を務めた家柄です。私が今昔館の館長をする以前から中井家の研究をずっとしており,そういうご縁もあって今昔館の開館と同時に,中井家の資料を8,000点ぐらい今昔館の収蔵庫にお借りし,一つ一つ読んでリストを作って整理しました。5年ほど後,うち5,195点が国の重要文化財に指定されました。

破格の出世を遂げた中井正清

 中井大和守の初代中井正清の肖像画をご覧ください。黒に地模様のある束帯姿で描かれています。士農工商の「工」の身分ながら,徳川家康に侍のように取り立てられました。この黒というのは四位以上の色であり,正清は従四位の下でした。名門の大名や譜代大名,あるいは十万石以上の外様大名というのが大体四位というところまで上がれますので,破格な出世を遂げた大工となります。大阪で中井家の話をしますと,徳川家の大工ということであまり受けないのですが,日本史全体からみたら,中井正清は日本の建築をつくった,国土をつくったということで,やはり忘れてはいけない人物だろうと思います。
 法隆寺の棟札に「番匠大工一朝惣棟梁橘朝臣中井大和守正清」と書かれています。「一朝」というのは日本国を指しますので,正清は「日本の惣棟梁」の大工となります。正清が亡くなったのは1619年。3年前に400回忌が京都の菩提寺で営まれました。
 本日は「ゼネコンのルーツ」というテーマでお話をさせていただきますが,現在のゼネコンと直接,中井家はつながっていません。明治に入ると,武家と同様,庇護者がいなくなった中井家は大工をやめてしまいました。しかし,今から400年前の江戸初期,正清は現在のゼネコンと同じような仕事をやっていました。

「選択と集中」で名古屋城つくる

 正清の出身地は,法隆寺の西里です。江戸時代,ここに大工が集住していました。今でも土塀に囲まれた大工棟梁の家が残っています。中井家は早い時期に京都に出て,京都御所の横に屋敷を営みました。
 正清がつくったお城としては,伏見城,二条城,江戸城,駿府城,名古屋城があります。当時お城をつくるときには,「普請」と「作事」という言葉を使いました。普請は土木関係の仕事で,石垣をつくります。石垣の上に建築工事をすることを作事と呼び,中井家は主に作事を担当しました。
 名古屋城は,本当に急いでつくられました。慶長15年(1610年)に加藤清正が石垣をつくり,その上に中井正清が建物をつくりました。実際には慶長17年5月ごろから仕事を始めます。ところが6月28日,徳川家康から中井の手元に,「天守を先に建てなさい。その後に御殿を建てなさい」という趣旨の書状が届きます。中井は天守と御殿を一緒に建てようと大工に手配していましたが,家康の指示は,それでは間に合わないから,お城の防御施設だけを先につくれということを急きょ指示したのです。中井は「選択と集中」ということで,集めた500人ぐらいの大工から7月には数十人を選抜して天守に集中させました。その資料も中井家に残っており,法隆寺の西里や京都の大工も動員されたことがわかります。その後のメンテナンスのために名古屋の大工もそろえていました。
 中井家は,京都・方広寺の大仏殿もつくっています。方広寺といえば,「国家安康」の銘文で知られる釣鐘があります。中井正清は,釣鐘自体はつくっていませんが,大仏殿の図面が中井家に残っています。方広寺の大仏殿の柱と柱の間を数えますと,大仏殿の大きさは東大寺の1.5倍ぐらいになります。もし方広寺の大仏殿が残っていればの話ですが,世界遺産登録は間違いなかったと思います。残念ながら江戸時代の終わり頃に落雷で焼けてしまいました。豊臣秀頼の施主でもってつくられたものでありますが,これも中井の仕事の一つです。

大坂冬の陣に従軍する大工

 この後,大坂冬の陣,夏の陣が始まります。ご存じのように,方広寺の釣鐘の言葉がけしからんということで,徳川家康が豊臣秀頼を攻めることになりました。中井正清の書状には,大坂冬の陣のとき,「御陣小屋」と「鉄之盾」をつくったと書いてあります。鉄之盾は,材木の外側に鉄板を貼ってつくります。もちろんこれらは徳川家のためにつくったとみられますが,大工は戦争のときに何もしなかったということではなく,従軍していたのです。
 「大坂冬の陣図屏風」を見てみますと,今の茶臼山のあたりに,家康の陣小屋があります。この陣小屋自体,中井がつくっており,わずか1週間ぐらいで完成させています。前もって切り組みをしてこれを組み立てたということが資料でわかっています。さらにこの下のところに,建物をつくっている人が見えます。大工です。足軽が一生懸命地面を掘っている様子も見えますが,これが普請です。近くで建物をつくっているのが大工で,中井配下の大工が陣小屋をつくっている様子がちゃんと屏風に描かれています。そして大坂夏の陣で豊臣家は滅亡しました。
 今日は時間がありませんので十分なお話ができませんでしたが,大工が江戸時代にお城を非常に短期間でつくったり,戦争のときには大動員されていたりしたということをご紹介させていただきました。どうもありがとうございました。
(スライドとともに)