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2019年5月10日(金)第4,714回 例会

オリンピックと日本人

後 藤  正 治 氏

作 家 後 藤  正 治 

1946年京都生まれ。ノンフィクション作家。85年「空白の軌跡—心臓移植に賭けた男たち」で潮ノンフィクション賞,「遠いリング」で講談社ノンフィクション賞など,これまでに数多くの賞を受賞。

 約40年間,ノンフィクションの分野で物書きをやってきた中で,スポーツに関わる仕事も随分してきました。本日は,オリンピックの中でもマラソンランナーという分野に絞って,お話をしたいと思います。

アイデアマンだった日本マラソンの父

 私は,文藝春秋から「マラソンランナー」という新書を出しています。歴代のマラソンランナーたちを取材して書いたのですが,彼らの話を聞いていると,日本人の精神史というか,ものの考え方の変遷が非常によく伝わってきます。
 日本人が最初にオリンピックに参加したのは1912年の第5回ストックホルム大会で,2人のランナーが参加しました。1人は当時東京帝大生だった三島弥彦さんという短距離ランナー,もう1人が東京高等師範(現筑波大学)の学生だった金かなくりしそう栗四三さん,NHKの大河ドラマ「いだてん」の主人公です。日本のマラソン史,あるいはオリンピック史のルーツは,この人抜きには語れないと言えるほどすごい人です。オリンピックではあまりいい成績を残せませんでしたが,「日本マラソンの父」と言われています。彼のすごさは,オリンピックに最初に出場したことではなくて,その後に残した様々な功績なんですね。
 例えば「駅伝」を始めたのは金栗さんです。プロデュース力がありましたから,新聞社の後援も得て,様々なイベントを残されました。また,当時はスポーツシューズなんてありませんでした。金栗さんはストックホルム大会では足袋で走りましたが,途中,石畳で破れてしまった。その反省を生かして,足袋屋さんと連携し,底にゴムを貼った,地下足袋の変形のようなスポーツシューズを考案しました。日本のランナーは戦前,戦後もしばらくこれを履いて走りました。
 金栗さんの墓標には「体力・気力・努力」と書かれています。明治の人なので「気力」を重視されたかなと思うとそうではなく,「まず体力がないと,マラソン,運動,スポーツはダメだね」と常々おっしゃっていたそうです。大変合理主義者でアイデアマンで,そこが核だったのかなと感じておりました。

東京オリンピックの重圧とプレッシャー

 戦後になり,東京オリンピックには3人のランナーが出場しました。君原健二さん,円谷幸吉さん,寺沢徹さんで,特に君原さんは生涯で35回マラソンを走った中で,途中棄権は一度もない偉大なランナーです。当時,マラソンは純粋なアマチュアスポーツでしたから,君原さんは高校を出てから八幡製鐵にお勤めになっていて,「通常の勤務で朝8時から夕方4時まで働いてから,所属の陸上部で練習した」と伺っています。
 東京オリンピックが近づき,候補選手に選ばれて合宿に行くときは,「アマチュアなのに職場を離れて合宿なんかに行っていいんだろうかと思った」と言うんです。これが当時の感覚で,今とは随分違いますね。東京オリンピックは国を挙げての大会でしたので,練習で道路を走っていても,本当にいろんな方から「頑張ってくださいね」と言われたそうです。「こちらはギリギリまで頑張っているのに,これ以上どう頑張れというんですか」と言いたいほどプレッシャーがかかったと。その重圧がどれだけ重かったか,きつかったか,今でもよく覚えていますと常々おっしゃっていました。
 円谷幸吉さんは東京で銅メダルをとりましたが,3年後,メキシコの1年前に自裁されて亡くなっています。君原さんは,東京オリンピックのとき同じ部屋で暮らしておられて,円谷さんは「もう一度日の丸を揚げることが日本国民との約束です」と言ったそうです。円谷さんが残した遺書は,「父上様,母上様,三日とろろ美味しゅうございました。—幸吉はもう走れなくなりました。—父母上様の側で暮らしとうございました」というような手紙でした。この時代の日本人を彷彿とさせる美しさがある半面,非常に悲しい手紙ですが,そういう時代だったんですね。東京オリンピックは,こういう世代が頑張ったオリンピックだったということを象徴していると思います。

オリンピックの本質は「国際運動会」

 時代は移り,女子マラソンで有森裕子というランナーが現れました。スペインのバルセロナ大会で銀メダリストになりましたが,レース後,楽しげににこやかにスタジアムの観衆に向かって手を振りながらウィニングランする姿が非常に新鮮で,時代は変わったんだな,と思いました。
 彼女は君原,円谷世代とは明らかに違っていて,「お国のために頑張るという気持ちはありますか」と聞いたら,「お国のためにこんなしんどいことをするのは嫌です」と言いました。やっぱり新世代だなと思ったんですが,一方で,何のために走るのかを非常に考え込む人でした。そのためにいろいろな行き詰まりも覚えて苦しんだと思いますが,そんな彼女がアトランタではレース後「自分を褒めてやりたい」と言いました。「2度オリンピックに出て,一応結果を残せたことにも満足している」と言ったのも大変印象に残っています。
 来年,2度目の東京オリンピックが開催されますが,五十数年前のオリンピックとは随分様変わりしたものになると想像しています。先ほどアマチュアリズムのことを話しましたが,今は選手は競技に出て報酬をもらうのが普通ですし,大会自体がビジネスとして商業化が進行しています。良し悪しは別にして,時代と共にそのように変容してきました。
 過去に現地入りした欧米は日本とは違って,人々がオリンピック慣れしているような印象を受けました。オリンピック成熟時代と言いましょうか,恐らく日本も,そういう中で来年を迎えるのではと。嘆かわしいという意見もあるかと思いますが,私は仕方がないというか,それでいいんだと思っている1人です。
 有森さんの言葉で「オリンピックは国際運動会」というのが印象的で,私も本質はそうだと思っています。時代の流れの中でオリンピックを取り巻く環境は変わっていきますが,トップアスリートが戦う競技自体がすばらしいと思うんですね。それを十分に楽しませてもらえばいいのかなという気がしています。