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2018年7月27日(金)第4,680回 例会

明治を支えた江戸の教育
-弘道館と偕楽園の話-

徳 川  斉 正 氏

東京海上日動火災保険(株)
常勤顧問
徳 川  斉 正 

1958年生まれ。’80年慶應義塾大学商学部卒業。同年,東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)入社。執行役員総務部長を経て,現在に至る。
水戸徳川家15代当主。(公財)徳川ミュージアム理事長。

 本日は6年振り,2回目の登板をさせていただいております。どうぞよろしくお願いいたします。

 自己紹介代わりに系図を持ってまいりました。一番下に私ども水戸徳川家が出ております。一番右の⑮というところに「斉正(なりまさ)」と書いてございますが,これが私です。真ん中辺に「徳川家康」と書いてあります。徳川家康公の血が4,400分の1程度入っていたはずです。最後の将軍「徳川慶喜」の11番目の娘の孫でございますから,私から慶喜を見ますと,ひい爺さんということになります。

身分を越えた教育,日本を支える

 実はきのう,西日本豪雨の関係で松山に行っておりました。地震があり,台風が来る,大雨が降るということで,本当に災害が巨大化していると言いますか,地球全体の気候がおかしくなってきております。保険会社としては受難の時代でありますけれども,江戸時代も実はこういうことがたくさんありました。干ばつもありましたし,大水もありました。過去に学んで今があるわけですけれども,今までの経験を生かしてさらに防災の対策をとっていくという意味で,歴史を学んで将来に生かすのが大きなテーマかなと思っています。

 戦国時代には力で国を押さえつけていたお侍さんも,時代を追うごとに有能な官僚と化していくわけでございます。各藩の財政基盤を高め,豊かに統治をする能力が要求されるようになってまいります。武士たちの人口は当時,約3%と言われております。残り97%は農工商の方々でありますが,武家の精神を継承しつつ,深い学識と統治能力,経済,財政の専門知識が必須の要件とされておりました。農民,職人,商人と手を携えて,武力に頼らずに自分の藩を豊かにするというリーダーへと変貌をしていくわけです。その社会全体の高い道徳水準であるとか,身分を越えて提供された教育は,その後の日本を支えていくことになったのではないかと考えます。

弘道館を設立,理系も文系も平等に

 武士の子弟に限らずですけれども,高い道徳心であるとか,経済,財政の教育というのを施していたのは藩校でございます。水戸藩の学校は「弘道館」と申します。藩校はだいたい1750年ぐらいから各藩にどんどん設立されていきます。水戸の藩校は遅いほうで,1840年代に出来上がっております。

 江戸時代は,農産物であるとか,工業製品をいかに他国に売りつけるか,が大きなポイントでした。それを流通させる三菱商事のようなシステムがないとやっていけないということで,今日と同じようなシステムは江戸時代にありました。保険も大阪でその元祖が出来上がっているんです。大阪の海鮮問屋の方々が,船が沈んだときに積荷の弁償をしなければいけない。そのためにお見舞金制度をつくったことが保険のスタートです。実はヨーロッパよりも先に出来上がっていたのです。私がこれを東京海上で言いますと,お前はすぐ徳川びいきをする,と言って怒られるんですが,発祥は日本のほうが早いのでございます。

 「弘道館」は,欧米で言うところのカレッジではなくて,ユニバーシティーでございました。座学の学問も,技術の教育も,その効能に貴賤はないんだということを建学の趣意書はうたっております。理系であれ,文系であれ平等なんだ。皆で力を合わせ国に貢献しよう。士農工商という身分の分け隔てはもはやこの時代,教育の世界ではないと言い切っています。

 水戸藩では,10歳になるとまず弘道館の教授たちがやっている私塾に入学します。そして15歳の頃に,選抜試験を受けて弘道館の寮生になります。さらに中でも試験がたくさんあり,優秀な人は今で言う大学院生のような,研究にかり出されて学者になっていくということもありました。試験の不合格者には特別のカリキュラムがちゃんと用意してあり,補講が行われていました。徳川慶喜公ももちろんこの弘道館で学びを受けております。何を習ったかというと,「天子に向かって弓引くことあるべからず」。大政奉還の引き金になった言葉です。「水戸の徳川は幕府に背くとも天子に向かいて弓引くことあるべからず」といった,その教育も弘道館で行われたということです。

西洋のコピーにならなかった

 弘道館には,国学,漢学,蘭学,医学,天文学,数学,音楽など,多岐にわたる学科がありました。武科も兵法,剣術,槍術,射術,砲術など,ほとんどが網羅された総合大学でした。卒業という概念はございません。手に職をもち,仕事を始めても戻って勉強してよろしい,と言われたものでした。

 「偕楽園記」の中にこんな言葉がございます。「弓に例えて,常に弓に弦を付けていては,弓はたわんでしまって,いざという時に役に立たない。馬に例えれば,馬は常に走らせていれば死んでしまう」。だから,「人も勉学や就労によって疲れた頭や体を偕楽園で休ませなければならない。いつも緊張していては健康な精神や肉体は育たない」ということが書いてあります。

 武士の教育はもちろんですが,領民教育に各藩相当力を入れてきたというのは事実でございますし,明治に入って西洋の文化が入ってきても,日本が西洋のコピーになるのではなく,いいところを取り入れてうまく日本化していくことができたのは,この江戸時代の教育の賜物であったのではないかと思っています。