大阪ロータリークラブ

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2016年6月3日(金)第4,582回 例会

大阪ロータリークラブ物語

旭 堂  南 海 氏

講談師 旭 堂  南 海 

1964年加古川市生まれ。大阪大学文学部入学。卒業前の2月,故三代目旭堂南陵に入門。’96年大阪府主催「舞台芸術新人」に指定。’97年大阪市主催「咲くやこの花賞(大衆芸能部門)」受賞。2006年,’07年ひと月間の続き読み会「講談毎日亭」を開催。’10年オーストリア政府の招きにより,ウィーン新王宮とウィーン大学で講談と大道芸を披露する。

 講談は,昔は講釈と唱えておりました。口一つで歴史を物語るので,記憶をして覚えねばならない商売でもございます。例えば赤穂義士などは,大石内蔵助良雄,原惣右衛門元辰,間瀬久太夫正明…と表門が二十余名――などとなります。張り扇も使います。息継ぎや忘れたときの時間稼ぎでございます。

星野行則と福島喜三次

 さて94年の長き歴史を誇ります大阪ロータリークラブ(RC)の創立の物語は,明治から大正のころでございます。大正11(1922)年11月,中之島の大阪ホテルで,最初は10人,その次は25人の有志が集い,(本部の)承認を得ることになります。

 大阪RC創立の尽力者は福島喜三次と星野行則。両人とも九州の人です。

 まず,星野行則という人物。ただいまの長崎,島原藩士の息子として明治3年に生まれました。武士の商法で家は傾いていましたが,「大阪で勉学に励みたい」と星野は明治10年代,当時居留地のあった川口で,大阪三一(さんいち)神学校に入学し,志を立てた。

 志とは,「西洋は維新成ったばかりの日本より文化が進んでいると聞く。その当地へと行きたい」。神学校を卒業後,妻の須磨子に打ち明けます。「金はないが,米国へ行って一旗上げたい」。

 須磨子は,京都府高等女学校という当時有名な女学校で寮母になります。「前借りをしたお金で渡航してください」。星野はその金で,米国に参ります。

 この寮生に亀子という女の子がいた。亀子のお母さんは,今春までの朝の連続テレビ小説「あさが来た」のモデル,広岡浅子でありました。亀子が実家へ戻った際,「お母さま,寮のおばさまが大変よくできたお方です」と話す。浅子は参観日のときに寮母に会ってみると,堂々たる振る舞い。

 浅子は加島銀行を立ち上げ,間もなく大同生命も立ち上げようとしている。同時に炭鉱もやっていて,人材が足りない。浅子は,この寮母の須摩子の伴侶ならば,大変すごい人に違いなかろうと思い定めます。「米国から呼び戻してほしい,私の銀行で働いてもらいたい」。女房からの手紙に応じて,星野は日本へ戻り,加島銀行の重役に就きます。

 もう1人の福島喜三次は,佐賀・有田の裕福な染物屋に明治14年に生まれます。東京高等商業学校,現在の一橋大学へと入学し,首席で卒業をいたします。

 三井物産に入社。翌年にはニューヨーク赴任。そしてヒューストン。米国を点々とします。明治45年,テキサス州ダラスに赴任し,三井の出先機関の支配人として辣腕を振るいます。

 汚い取引は全くしない。商いに潔さ,正々堂々という武士道の精神を持ち込んだ男と言われ,信用を得ます。そして,できたばかりのダラスRCの会員に認められます。

米山梅吉の登場

 ここに米山梅吉という人物が登場します。三井銀行のドンと呼ばれた人でした。大正の半ば,そうそうたる顔ぶれで,米国への視察旅行に出かけます。目的地はニューヨークとワシントン。米山はここで気付きます。ダラスに綿花取引をしている三井物産の男がいるはず。ニューヨークからダラスに行きます。

 このとき,2つの説があります。RCの会合が行われる日でした。福島が米山をいきなりゲストとして呼んだという説。いま1つは,ロータリーの会合からニコニコして戻ってきた福島に,米山がロータリーのことを質問します。福島は「金もうけをし,今度は社会奉仕をする。人の生きる意義につながるやり方は,西洋だけのものではないと思います」。米山は「僕にもその精神を教えてくれ」と耳を傾けたという。

 大正9年,東京勤務になった福島に米山が声をかけます。「待っていた。東京にもRCを立ち上げたいが,どうすればいいのだ」。福島は,会員だったダラスのRCに話を持って行き,とんとん拍子に話が決まる。その年の10月20日,東京の銀行クラブで初会合が開かれます。翌4月,東京RCは国際ロータリーから承認を受けます。ただ,その前月,福島は大阪勤務となっていたのでした。

大阪にRC誕生

 ここで大阪の加島銀行,大同生命の重役になっていた星野と福島が出会います。

 大阪勤務になった福島は,大阪は閉鎖的だと聞いている。さて,と思っているときに,渋沢栄一翁の肝いりで西洋視察団が出ることになった。加島銀行からは星野。

 星野は米国から帰国後に外遊し,ほぼ世界を一周し,「見学余録」という見識のある本を著していた。福島はこれを読んで感嘆し,星野を訪ねて行きます。

 福島は星野に「米国にロータリーというのがあり,東京にもできたばかり。ぜひ大阪にもと思っています。見てきていただきたい」。星野は世界のロータリーを見て「これだ」。そしてシカゴの本部へ行き,直談判いたします。そして,大正11年,大阪RC創立。翌年には,関東大震災が起きました。大阪RCが大活躍をして注目されます。

 昭和の初年度,甲南学園の創立者で文相も務めた平生釟三郎(ひらおはちさぶろう)が会長になります。本部に掛け合って,東京,大阪などのロータリーをひとつの第70地区にまとめます。この方も大阪RCの人。

 奉仕の精神は,人間が,人種,国,業種も越えて,心でつながり合おうというものでございます。その思いが大阪で結実をいたしましたのが,94年の来歴でございました。(終)