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2015年3月6日(金)第4,524回 例会

造幣局の歴史と今

新 原  芳 明 君(硬貨製造)

会 員 新 原  芳 明  (硬貨製造)

1950年広島県生まれ。’72年東京大学法学部卒業,同年大蔵省入省。’73年大阪国税局調査部,’77年伊勢税務署長。’81年外務省在ベルギー日本国大使館一等書記官。’84年主計局運輸係主査,’91年在フランス日本国大使参事官。’95年富山県副知事。2000年総理府PFI推進室長,’01年総務省大臣官房審議官,’02年証券取引所等監視委員会事務局長,’08年(独)造幣局理事長。’13年12月当クラブ入会。

 造幣局というと「今度来るときには1枚でいいですから1万円札を持ってきてください」と言われます。実は私どもは金属でコインと勲章を造っていて,紙類は造っていませんので,これは誤解です。今日はここで造幣局の歴史をお話しすることによって「造幣局がどうして大阪にできたのか」などについてご説明したいと思います。

大蔵省より古い歴史

 1853(嘉永6)年,ペリーの来訪が造幣局ができる最初のきっかけです。造幣局は明治政府ができてから生まれた組織です。だから明治に入ってしばらくしてからできたんじゃないかと普通は思うのですが,あに図らんや,’68(慶応4)年に今の場所に決まり,香港から造幣機械が到着しています。

 ペリーが来て6年後に貿易が始まりますが,日本は小判や銀貨など貨幣の純度が一定しておらず,幕府は諸外国から「近代的な貨幣を造ってくれ」と要望されました。幕府は造幣工場の建設を約束し,倒幕後,新政府がそれを引き継ぎます。造幣工場の建設の開始が’68(明治元)年で,翌年に造幣局という組織ができます。この年のうちに大蔵省という組織が初めてできますので,実は大蔵省よりも造幣局の方が歴史としては古いのです。

 工場がほぼ出来上がりますが,機械の設置や運営はなかなか日本人だけではできないので,お雇い外国人を連れてきて彼らが指導に当たり,’71年4月4日(旧暦では明治4年2月15日)に創業式典を開いています。

 なぜ造幣工場を大阪にしたのか―。当時まだ首都が東京になるかどうかというのは決まっておらず,大久保利通は大阪を首都にしようという話もしていました。’68年は鳥羽伏見の戦い,江戸城の無血開城,彰義隊の戦いがあり,当時の東京は非常に治安が悪かったということも大阪にできた事情ではないかと思います。

非鉄産業の原点

 貨幣を造るのには,模様を付ける前に磨いたり金属を溶かして分析したりするのに硫酸が要るのですが,当時は輸入するしかなかったので,硫酸工場を’72(明治5)年に造っています。この年,初めての貨幣大試験が行われ,明治天皇がおいでになっています。

 硫酸の製造所の操業は’85(明治18)年に停止しています。だんだん日本の産業が発達して国内で硫酸が買えるようになったからです。今造幣局は国道の南側しかないのですが,昔は北側にもありました。そこには硫酸製造所や銅の精錬所,コークスやインキ,コンパスとか天秤などの工場があったのですが,全部外から買えるようになって北半分は要らなくなったのです。

 お雇い外国人の大部分は’75(明治8)年までいましたが,ゴーランドという人は’89(明治22)年までいました。この人は精錬の専門家で,敷地の中に銅の反射炉を造りました。大阪砲兵工廠でも炉を造る指導をしています。砲兵工廠や造幣局から日本の鉱山会社や精錬会社に技術が出ています。ですから日本の近代的な非鉄産業,特に銅については彼が原点になっているのです。

 さて「長州ファイブ」と言われる5人がいます。井上馨,遠藤謹助,山尾庸三,伊藤俊輔(博文),井上勝の5人です。彼らはペリーが来て10年後,英国に密航しますが,5人のうち4人が造幣局のトップになっています。お雇い外国人の英国人たちは非常にまじめで自説を曲げず,「必ずこういうふうにしろ」と細かく言ったので,日本人は相当反発したようです。そこでお互いのコミュニケーションを取るため,ロンドン大学で勉強した井上馨や井上勝が,造幣局が出来上がるときの責任者を果たしています。伊藤博文も,2ヵ月ぐらいですが,造幣局のトップをやっています。

 2年前のことですが,長州ファイブが英国に行って150年ということで,国際交流基金がいろいろな行事をやりました。その中の一つで「日英造幣交流史セミナー」というものがロンドンでありましたが,お雇い外国人の子孫の方がたくさんいらっしゃったんです。私は英国というのはこういう国かと思いました。当時世界中に出た人がいて,しかも体制も社会もほとんど変わっていませんから,日本のように昔の話ではなくて,昨日の話,おとといの話としてそういう人がいる。英国という国は日本と違うんだなと思いました。

通り抜けの桜とガス灯

 桜の通り抜けの話も申し上げましょう。藤堂藩の蔵屋敷がたまたま敷地にありまして,そこで日本中のいろいろな珍しい里桜を育てていました。それが造幣局の敷地の中に植え替えられ,’83(明治16)年,長州ファイブの1人,当時の造幣局長の遠藤謹助が「造幣局の職員だけで見るのはもったいない」ということで一般市民に開放したのが始まりです。

 毎年手入れをして新しい桜を入れています。去年は151年目だったので151種類で350本の桜になりました。毎年1種類ずつ増やしています。去年は83万6千人の人が見えています。外国の人も地方の人もたくさんおいでになります。

 通り抜けの通路に’71(明治4)年にできたガス灯があります。日本で最初のガス灯は銀座でも横浜でもなく,島津斉彬が鹿児島で小規模なものをつくり,造幣局は2番目だそうです。一挙に700近いガス灯をつけたので,大阪の市民は非常にびっくりしたそうです。今でも桜の通り抜けの時にはつけていますので,ぜひ見ていただきたいと思います。

(スライドとともに)