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2013年3月22日(金)第4,432回 例会

日銀大阪支店と大阪経済の130年

雨 宮  正 佳 君(中央銀行)

会 員 雨 宮  正 佳  (中央銀行)

1979年東京大学経済学部卒業後,日銀に入行。企画局長などを務め2010年に理事。’12年5月に大阪支店長就任。’13年3月18日付で企画局担当として本店に異動。’12年9月に当クラブに入会。’13年3月23日に退会。

 日本銀行は黒田新総裁のもとで新しい体制が始まりました。今年は本当に日本経済にとって正念場の年だと思っています。過去15年間に,日本経済がデフレから脱却できるチャンスが2000年と2006~07年の2回あったのですが,2000年は世界的なITバブル崩壊で実現せず,2006~07年は08年以降のリーマンショックでまただめになった。今回,3度目のチャンスはアベノミクスで幸先のいいスタートを切っております。現段階ではまだ「気」の部分でありますから,実態がついていくよう政策運営をしたいと肝に銘じていると申し上げたいと思います。

お金の価値安定が日銀の役割

 すべての日銀の仕事は日本で唯一お金を出していることに由来します。お札に日本銀行券と書いてありますが,お金を皆さんが安心して使えるようにするのが日銀の究極の仕事です。お金を安心して使えることの中身は2種類あります。1つはお金の価値が安定していること。インフレにもデフレにもしない物価の安定のために金融政策を行うことです。もう1つは,皆さんが安心して銀行にお金を預け,銀行から必要なときにお金を下ろすためには銀行が健全でなければいけないので,金融システムの安定を守る仕事をしています。いざというときにお金を銀行に貸すのも一例です。そういう仕事を本店と全国32の支店を通じてやっていますが,お札を出す機能では大阪支店が西日本の母店になります。

 (スライドとともに)明治時代の前,江戸中期以降の大坂は「天下の台所」として日本経済の中心でしたが,大坂の経済活動のピークは1750年ぐらいで,その後,徐々に衰退していった。一つの指標に人口をとると,1750年ぐらいで大坂中心部,今の中央区,北区,西区ぐらいの人口が40万強でした。当時,江戸が100万でした。大坂の人口は幕末に27万まで縮小したと言われています。明治維新のときに蔵屋敷制度が廃止されたこともありますし,明治新政府に相当ふんだくられたみたいです。驚くべきことは人口が江戸末期の27万から明治20年には40万に増え,1750年のピークまで15年で回復したのです。明治4年に新貨条例で「円」という通貨を決めて,明治6年に銀行制度が導入されました。このときに国立銀行制度が導入されて,第一,第二,第三というナンバー制の銀行が設立されました。当時,お金はこういう民間銀行が発行していまして,発行が増え過ぎてインフレになってしまった。そこで中央銀行をつくって日本銀行券として管理することにした。これが1882年(明治15)の日銀開業であります。日銀は株式会社でして,ジャスダックにも上場しています。日銀創設のとき資本金を集めるため株主を募ったのですが,当時の株主構成を地域別に見ると,東京74人,大阪121人,京都113人,滋賀80人と圧倒的に関西の株主が多かったのです。私はよく冗談で「日銀は設立時,住友さん,三和さん,大和さんより前に関西系銀行だった」と言うのですが,これも当時の大阪経済の躍進を物語っていると思います。

初代支店長は関西で起業家に

 1つご紹介したいのが大阪支店開業の初代支店長の外山脩造です。私が57代ですが,この方は大阪支店長をやめた後,大阪財界でいろんな会社をつくりました。例えばアサヒビール,阪神電鉄の創業者で,阪神電鉄の初代社長です。阪神タイガースのチーム名の由来について面白い話があります。当時,大阪と並ぶ世界の工業都市デトロイトにある「デトロイト・タイガース」からとったという説が比較的有力らしいのですが,外山脩造さんの幼名「とらた(寅太)」を基にしたのではないかという珍説があるそうです。その説の首謀者が言うのは,その証拠に戦前まで甲子園球場のすぐ外側に外山脩造の銅像があった。銅像は戦時中の供出で軍にとられたそうですが。仮に阪神タイガースと日銀大阪支店にこういう縁があるとすると,私も大変うれしいことです。大阪支店開業当時の重役の写真に菅沼達吉さんが写っています。この方は森繁久彌さんのお父さんです。日銀をやめた後,今の関西電力の前身の一つ大阪電燈の重役も務めた方です。森繁さんと大阪のつながりは『夫婦善哉』だけではありません。

東京のバックアップ機能重要に

 戦後,県内総生産の全国シェアを見ますと,東京はサービス業を中心に,名古屋は自動車産業の成長とともに上げていますが,大阪は残念ながらかつての10%から7%にシェアが落ちています。ただ日本銀行における大阪支店の重要性が低下したことはありません。日本全体のバックアップという新しい重要な機能を果たすようになっています。自然災害,テロ,感染症,事故,システム障害などいろんな危機が考えられますが,日銀は平成8年に大阪にバックアップセンターをつくりまして,東京が被災した場合には日銀のすべてのオペレーションは大阪で代行する仕組みを整えております。お金の出し入れ,日本中のすべての決済は最終的に日銀の中で行われます。1日100兆円になるのですが,いざというときは大阪でやる仕組みを整えているのです。こうした役割は,今後の大阪のあり方を考えるうえでも非常に重要だと思っています。

 130年間,一貫して変わらないものがお稲荷さんです。昔は中庭,今は3階の上のほうに鎮座ましましておられます。日銀大阪支店長は,毎月一度このお稲荷さんに参拝するのが最も重要な仕事と言われています。月に一度,自分はこういう支店運営をしたいと神様にお願いしながら,自分に言い聞かせる機会を得るのは非常に重要なことだなと思うようになっています。きょうは夕方,お稲荷さんに参拝し,大阪と大阪経済の発展をお祈りして,大阪を後にしたいと思っております。