大阪ロータリークラブ

MENU

会員専用ページ

卓 話Speech

  1. Top
  2. 卓話

卓話一覧

2012年11月30日(金)第4,418回 例会

花鳥諷詠のこころ

安 原    晃 氏

真宗大谷派前総務総長
俳人
安 原    晃 

1932年新潟県上越市生まれ。大谷大文学部卒業後,同県長岡市の安浄寺住職を継承。’85年真宗大谷派の宗議会議員に,’08年から宗務総長を4年間務める。安原葉の俳号で「ホトトギス同人会」会長なども務める。

 「花鳥諷詠」という言葉を提唱したのは,俳人の高浜虚子でございました。虚子は1874年(明治7)に松山で生まれ,1959年(昭和34)に鎌倉で85歳の生涯を閉じました。17歳のときに同郷の先輩の正岡子規に会って初めて俳句を学び,1つ年上の友人,河東碧梧桐とともに子規門下の双璧として子規が取り組んだ俳句革新に参加。現代の伝統俳句の大道を築き上げたと言っても過言ではないかと思います。その虚子が掲げた言葉が花鳥諷詠でございます。これは俳句の定義でして俳句の理念,本質でもございます。そして現代の混沌とした時代を生きるための思想にもつながっているということを申し上げてみたいわけです。

取り巻く自然や宇宙を賛美

 花鳥諷詠を虚子が唱え出したのは1928年(昭和3)4月,ここ大阪なんです。大阪毎日新聞社の講演会で初めて述べて,これが一斉に広がるわけです。講演内容を要約してお話ししますと,春夏秋冬の移り変わりに起こる現象を古来から日本では「花鳥風月」という4つの文字で表してきましたが,その花鳥風月を諷詠するということでございます。ご承知のように俳句は季題と五七五,17音をもって詠むわけですが,自身を取り巻く大自然や人事を客観的にあるがままに詠む。「諷詠」という言葉は,かいつまんで申すならば調子を整えて詩(うた)を詠むという意味でありますが,虚子はそれに社会や自然,さらには宇宙をも賛美する非常に積極的な意味を諷詠という言葉の概念に持ち込みました。

 虚子とは何者であるかということを表現するのに最もふさわしいのが「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」という句です。「明易」というのは,夏の季題(季語)「短夜」の傍題です。これは「明け易し」とか「明け易い」という意味です。ところがこの「花鳥諷詠南無阿弥陀」がなかなかわかりにくいわけです。この句についてはその後の研究座談会で虚子に質問が飛びました。虚子は「この句は何がどうというのではないのですよ。われわれは無際限の時間の間に生存しているものとして,短い明け易い人間である。ただ信仰に生きているだけである,ということを言ったのですよ」というふうに答えました。虚子は若いときから「写生は余が信仰である」ということを言いまして,信仰という言葉を使っているんです。

 「花鳥諷詠」イコール「南無阿弥陀」,そういう知的理解は誰もができるのですが,知的理解にとどまらないで,全生活を通してそのとおりであると身もこころも信じることが大事だということを,その座談会の質問者に伝えたかったのではないかなと思います。背景には,若いときに河東碧梧桐とふたりで子規庵に出入りし,正岡子規を看とったということが大きな意味を持っておったのではないかなと思います。命あらん限り,生きる意味を見出そうと必死になって生きた子規のすさまじい人生,そういうものをそばで看取る経験が虚子の生きていく中での大きなエネルギーになっているのではないかなと想像されます。これは戦後ですが,フランス人の質問に答えて虚子は「人生とは何か。私はただ自然の運行,花の開落,鳥の去来,それらのごとく人もまた生死していくということだけ承知しております」という言葉を述べております。

俳句に広がる念仏の世界

 虚子が伝えようとした「花鳥諷詠」という俳句の中には,念仏の世界が広がっていることが考えられます。虚子は明治30年代の後半ですが,比叡山横川の寺にしばらく逗留して,小説を書いております。そこで天台宗の教え,天台本覚論も学んでいます。天台本覚論というのは中国の老子の思想に近いのですが,普通は「一切衆生悉有仏性」というのが仏教のオーソドックスな解釈ですが,これに天台は「草木国土悉皆成仏」,つまり石ころでも仏になる,そういうものがあるんだということを加えたのが天台本覚論というものでございます。こういう思想を虚子は「花鳥諷詠」を表現していく中で,一つ土台にきちっと押さえているのではないかなと思います。

  自然界であれ人間界であれ,詠まんとする相手のこころをできるだけ素直に受けてうなずく。現代は対話が喪失した時代とも言われておりますが,相手との真の対話が成り立つことを「花鳥諷詠」という言葉を通して私どもに伝えようとしておるわけでございます。人間はややもしますと謙虚なこころを失いがちでございます。謙虚であるということを常に生活の基盤に置いて,この混濁し切った現代という社会の中で相手に常に配慮し,ともに命を大切にしていくということが大切でなかろうかと改めて思います。

人間も自然,宇宙の一部という思想

 人間中心の考えは大きな誤りであります。人間は大自然,宇宙の中のごく一部に過ぎないんだという自覚が,現代社会では大きく求められ,願われているのではないかということを思いますときに,虚子が既に昭和3年に「花鳥諷詠」という言葉をもって俳句を意味し,そして俳句を教えようとした。そしてそれをもって人生を全うして生き抜いたことは実は単に俳句の分野に限らない,むしろ現代において生きていくうえでの重要な思想になっていると言っても言い過ぎではないのではなかろうかなということを,このごろ痛切に思うわけでございます。

 特に昨年の3.11以後,私どもの日本をはじめ世界じゅうが震え上がりました。そこで問われてきたものは何かと言うと,人間とは何か,命とは何かということを改めて私どもは教えられることでございますし,問い返さなければならないことでございます。虚子は既にそれに先立って「花鳥諷詠」,こういう精神こそ人間社会には欠かすことのできない思想なんだということを伝えておるのではないかなということを思うわけでございます。