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2012年10月26日(金)第4,415回 例会

日本古代史の最大の謎『邪馬台国』

足 立  倫 行 氏

ノンフィクション作家 足 立  倫 行 

1948年鳥取県境港市生まれ。早稲田大学政経学部中退。ノンフィクション作家。
デビュー作の「人,旅に暮らす」以来,同時代人の生きる意味を探索している。

 私は昭和23年生まれの来年は65歳になりますが,若いころとは全然違ったものに関心が移ってまいります。その1つに,日本古代史があります。来月あたり邪馬台国連絡協議会みたいな全国組織が立ち上がるそうですが,多くの人が邪馬台国に興味を持っていると思います。この11月,あと2週間ほどですが,『倭人伝,古事記の正体』という本を朝日新書から出すことになりました。その中のごく一部ですが,お話しさせていただきます。

奈良盆地に日本最初の国家

 奈良盆地に“山の辺の道”という日本最古の道があります。道の脇に,4つの大きな前方後円墳があります。同じような形の墓づくりが,約350年間にわたって大和から日本列島全体に散っていったわけです。北から西殿塚古墳,行燈山古墳,渋谷向山古墳,箸墓古墳と並んでいます。最初の天皇たちの墓は,山の辺の道の周辺にかたまっているわけです,少なくとも4つ。まず奈良盆地の東南部に日本最初の国家ができたであろうことは,ほぼ間違いないわけです。

 これと密接にからむ問題があります。邪馬台国問題と言われています。今申しました大型の前方後円墳,最初の天皇たちの墓は,3世紀前半――半ばと言う人もいますが,前半ごろから4世紀の初めごろにかけてつくられたと言われています。これは考古学的な知見です。

 ほかに,歴史学――文献史学と言ったりしますが,歴史学では3つのテキストがあります。うち2つは日本の『古事記』と『日本書紀』です。『古事記』は712年に完成しました。これに対し,中国の正史に『魏志倭人伝』があります。その中に,「魏の王様から王として認めますよという金印をもらった邪馬台国女王卑弥呼」というところがありますが,そのことが日本で一番古い『古事記』『日本書紀』に一言も出てこない。これが大きな問題なわけです。

邪馬台国は地方政権か中央政権か

 正当に後漢を継いだ魏から称号をもらった女王卑弥呼とは一体誰か,大きな謎です。それ以上に重要なのが,実は卑弥呼がいたとする邪馬台国がどこにあったのか,九州説と畿内説(奈良の大和)とがあって,明治43年(1910)からちょうど100年ぐらい論争を続けていて,いまだ解決しない問題です。

 もし邪馬台国が北部九州にあったとします。すると,卑弥呼は247年,あるいは248年に亡くなったとされていますから,3世紀の半ば時点でまだ地方政権と呼べるわけです。全国に力が及んでいない。

 ところが,全国に前方後円墳をばらまいて,同じ巨大な建造物をつくらせたようなところとなると,それは畿内の奈良県の大和のことですが,その3世紀半ばの時点で中央集権,ある意味での連合政権,日本国家を束ねるような権力があったことになる。そうなると,国の成り立ちとして,地方政権か中央政権かで全然違うことになってくるわけです。単に所在地論争ということじゃなくて,日本の国はどうやって始まったのかという,根本に関わる問題なわけです。

 現在は畿内説が圧倒的に優勢です。と申しますのは,2009年に方位と軸線をそろえたその当時としては最高の大きさの大型の建物が4棟,箸墓の周りに,あそこら辺は纏向遺跡と言いますが,そこから出土したのです。すわ卑弥呼の宮殿ということで,マスコミで大騒ぎになりました。

 それから,箸墓は卑弥呼の墓と言われているところですが,そのお堀の一番底のところの土器を見ると,炭素の年代測定法で大体240年から260年ぐらいと出てきました。これは247年に亡くなった卑弥呼とぴったり一致するものですから,これはやっぱり卑弥呼は畿内にいたんだろう,大和にいたんだろうというのが,今歴史学でも,考古学でも圧倒的に主流なわけです。

捨てられない北部九州説

 しかし,私はどうしても九州説に心が残ります。2年前に森浩一同志社大学名誉教授が,『倭人伝を読みなおす』という小さな本なんですが,画期的な説を出されまして,私はとりこになってしまいました。『倭人伝』は『高句麗伝』とか『韓伝』,『扶余伝』よりもずっと多い2,000字も使っています。しかも,10人の個人名が出てくる。魏は倭国を非常に尊んでいた。

 何のためか。魏から派遣された張政という軍政官がいますが,これに「張政ら」と書いてありますから軍事顧問団ですね,これが卑弥呼の後の台与という女王のときに送り帰された話まで書いています。すると延々90年間にわたる長い話を倭国に持ってきているわけです。張政らは実に247年から266年まで19年間も倭国に行っていたことになります。なぜそんなに長い間いたのか。

 張政たちは恐らく倭国を一つにまとめたかった。地勢学的に,華北にいた魏と,華南・華中にいた呉とは戦争状態だったわけですから,魏としては倭を味方につけたかったのです。近攻遠交の戦略です。そのためにいたんじゃないか。そして,重要任務として,卑弥呼に倭国を一つにできなかった責任をとれと言って死んでもらった。「もって死す」というのは,今までは「張政が来たとき既に死んでいた」というふうに読んでいたのですが,そうじゃなくて,「張政が来て,教え諭したことによって死んだんだ」と。

 その後,狗奴国王を王にしますが,全然一つにまとまらなくて,台与という一族の13歳の女性を再び新女王にします。台与を擁立したころに,北部九州から大和に東征したというのが森先生のお考えで,なかなか画期的です。

 今邪馬台国は纏向一辺倒ですが,北部九州説ももう一度考えてみる必要があるのではないかということで,お話しさせていただきました。ご静聴ありがとうございました。