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2009年5月15日(金)第4,254回 例会

アジアに井戸を贈って30年

坂 口  久 代 氏

(社)アジア協会アジア友の会
常任理事
坂 口  久 代 

帝塚山学院大学英米学科卒業後渡英。(有)アプリコート顧問。カラバッシュテニスクラブ(元)総支配人,関西イタリア語文化センター代表。(社)アジア協会アジア友の会国際ネットワーク副委員長。常任理事。
小嶋忠良 著「マロンパティの精水」をご寄贈。

 現在,世界には200以上の国々に60億を超える人々が暮らしていますが,約80の国が水不足に悩み,17億もの人々が安全な水の供給を受けられずにいます。水による感染症で,1日6,000人もの子どもたちが亡くなっているという悲しい現実もあります。

 人間の体は70%が水分です。命にとって欠くことのできないのが水です。生活には1人1日20リットルは必要だと言われています。農業や牧畜,そして工業用にも大量の水が必要です。

 日本にいると,時として忘れてしまう水の大切さですが,アジアの貧しい村々では,必要最小限の生活用水を確保することが最大の課題です。何キロも離れた川やため池に水がめをかかえていき,安全とは言えない水を家まで運んでくる。その繰り返しが,村の女性や子どもたちにとっての日課なのです。

79年,インドでスタート

 社団法人アジア協会アジア友の会(JAFS)は,生きていくうえで必要最小限度の水が手に入らない人々のために,地球に住む仲間として何かがしたいという思いから,1979年から運動を始めました。

 第1号はインド中部のググリー村に贈った井戸です。以来,インドのほかフィリピン,カンボジア,スリランカなどアジアの各地にいくつもの井戸を贈ってきました。

 私たちが送った井戸によって,120万人以上の人々が安全な水を利用できるようになりました。

 79年の夏,翻訳の仕事の関係でインドで撮影されたスライドの英訳を頼まれました。アジアは貧しいとは聞いていましたが,その現実に胸が痛みました。今から30年前のことですが,「これはいつ撮影されたのですか」と思わず尋ねたほどでした。私はこのスライドが本当かどうか確かめたいと思い最初に,フィリピンへ飛びました。

 マニラ市内にはスモーキー・マウンテンというゴミの山がありました。子どもが,生きていくためにゴミをあさっていました。少年はゴミの中からコーラのビンを見つけ,このビンを換金して,飢えをしのいでいました。

 地球人口の2割は1日1ドル,そして,55%は1日2ドルの生活をしている絶対的貧困層が現在も存在するのです。

地域の人々と手掘りで

 80年にインドのベンガルに贈った井戸は手掘りでした。それまで子どもたちは,水が入ると10キロから15キロになる真ちゅう製のかめで水汲みをしていました。生きていくためには毎日水汲みをしなければならなかったのです。

 井戸ができて,子どもたちは水汲みから解放され,青空学級で自分の名前を書くことから学び始めました。

 難民のバダル君は当時7歳でしたが毎朝9時前に,1kmほど離れたところに1時間以上かけて水汲みに行っていました。7歳の子どもにとっては重労働です。しかし,バダル君は水汲みから解放され,勉学に励み,大学を出て,現在は大学の講師をしています。

 94年にはフィリピンで大事業を手がけました。マニラから300km離れたバナイ島パンダン町でのプロジェクトです。町には塩分の多い水しかないため,高血圧と子供の死亡率が高いという問題を抱えていました。共同の水汲み場の水は塩辛く,とても飲めるものではありませんでした。

 日本からJAFS創始者の村上事務局長,田中理事長,数名の水道専門技師と私が現地に行き,パンダン町長,そして役場の人たちと何度もミーティングをしました。

 町から離れたジャングルの奥地にマロンパティという水源地がありました。しかし,水源地に行くのに道がありません。ジャングルの奥地で,第2次世界大戦の激戦地。地元の人々の「日本人が何をしに来たのか」という視線を痛いほど感じました。

 水源地の水をポンプで吸い上げて,小高い丘に貯水タンクを作り,パイプラインでつなぎ,町まで送り込むことになりました。コンクリートミキサーはかついで運びました。水源地に行くための橋は現地の人たちが作ってくれました。ポンプ室で使う2基のエンジンは分解して運び,ポンプ室で組み立てました。

 貯水タンクの場所に茂っていた雑草は現地の人がきれいにしてくれました。全工程すべて手作業でパイプを埋め込みました。子どもたちも授業の一環として手伝ってくれました。

 パイプラインをつなぐことによって,共同の水飲み場があちこちにでき,学校には水道が敷かれ,町には水道局が開設されました。

 完成式の日,子どもたちが手製の日の丸の旗をつくって,町じゅうの人たちが私たちを大歓迎してくれました。「ウワーッ」というあのときの声は,今でも鮮明に記憶に残っています。

 この事業は,完成まで足掛け7年かかりました。事業に携わった人の力のすごさに,私はただただ感動しました。日本の若者たちも捨てたものじゃありません。言葉の壁も乗り越えて一心同体となって,頑張って汗を流してくれました。町長夫人だったメリーさんは,私にとって生涯の友。そして,水源地で見つけた5キロほどある大きなハート型の石は,私の宝物です。

 何万人もの方々のお陰で,アジア18カ国に井戸を贈ることができました。井戸を掘るというボランティア活動の根っこは,皆様方のこんこんと湧き出る知性と感性の水脈につながります。月2,000円の会費ですが,その2,000円が絶対的貧困層の人たちの命につながります。ご支援いただけますことを心よりお願い申し上げます。