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2004年9月10日(金)第4,038回 例会

~祈りの道~世界遺産登録を受けて

田 中  利 典 氏

総本山 金峯山寺
執 行 長
田 中  利 典

1955年生まれ。'79年龍谷大学文学部仏教学科卒業。'81年叡山学院専修科卒業。 宝勝院住職・金峯山修験本宗及び金峯山寺責任役員・同教学部長を経て現職。

 このほど「紀伊山地の霊場と参詣道」ということで世界遺産に登録されました。日本で12例目です。たった4年という世界でも例を見ない速さで登録を受けたのは,ひとえにたくさんのお力添えをいただいたお陰であります。

 今回の世界遺産は,3つの霊場と3つの参詣道からなっています。霊場としては吉野大峯,これ修験道の霊場です。熊野三山,これは神仏習合といいますか神道と修験道の霊場。高野山,これも真言密教曼陀羅世界の霊場です。それにそれを結ぶ参詣道,吉野大峯については大峯奥駈道,熊野の道は熊野参詣道,いわゆる熊野古道,高野山については高野町石道です。

奥駈道は修行の場

 3つありますが,熊野古道も,高野山町石道も,随分以前にある種廃れた道です。今あれを使って熊野詣をしている人はあるでしょうか。しかし大峯奥駈道は,今もあの道を使って修行をしております。世界で2例目の道の世界遺産ですが,生きた道の世界遺産はもしかするとこの大峯奥駈道が唯一かなと思います。

 参詣道というのはそこへ行くための道です。奥駈道というのは,実は熊野に行くのが目的ではないのです。道を歩くこと,そこを修行の場とすることが奥駈道の本当の意味です。そういった意味では参詣道としては少しなじめない,修行の場ということが言えるのではないかと思います。

 奥駈では掛け念仏を唱えながら山をひたすら歩きます。歩くその瞬間が実は意味があり,結果として到着するということです。つまり行くことが目的ではなくて,修行の場として奥駈道はあるのかなということです。そして修験道の修行の場が奥駈道であります。修験道とは山の宗教であります。野路に伏して修行をする者たちのことを山伏と言いますが,山伏の宗教であります。修行をすることで,超能力と言いますか,知恵と力を獲得するわけです。験を得るもののところから修験と言います。験を得る道としての修験道,実習,実験とか修行得験とかいうふうに修験のことは言いますが,山の宗教であり,山伏の宗教であり,山に入って験力を得るのが修験道である。

修験道廃止令で廃寺に

 人は昔から山には神仏,祖霊,聖なるものがおられる世界と考え,畏れを持って仰ぎ見てきました。その世界に入るということは,聖なるものに触れるという宗教意識に根差した入山でした。その基層の部分に深く関わるのが修験道という宗教であり,神仏混淆した宗教観です。その日本古来の山岳信仰に,神道や外来の仏教,道教,陰陽道などが混淆して,習合してできたのがわが国固有の民族宗教である修験道です。

 明治期に修験道にとって大変不幸なことが起こりました。神仏分離令というのが出まして,神さんと仏さんを分けてしまう時代がありました。神仏分離は廃仏毀釈という運動につながり,最もひどい目に遭うのは神仏習合して成立した修験道であります。国は明治5年に修験道廃止令を出します。それで本当に修験道は逼塞を余儀なくされた。金峯山寺は1300年昔に開祖されたお寺で抵抗を重ねるんですが,廃寺となってしまいます。

 近代化というのは,ある種一神教化なんです。明治政府は列強諸国からの侵略を防ぐために,国を強くするようにあわてて政策を行うわけですが,その列強諸国と肩を並べるようにするためには,多神教的な風土ではどうも違う。近代国家というのは,一つの価値観で国全体をつくり上げていくシステムがいい。そのために,神仏習合の日本人が重ねてきた精神文化を壊す必要があった。国家神道という一神教をつくることによって日本の近代化を行う,こういうふうに最近ようやく言われるようになりました。

 今回の世界遺産を通じて私が申し上げておりますのは,実は修験道の復興ということも一つですが,ただ復興するのではなくて,神仏習合したものを修験道の中にはたくさん持っておって,それが現代社会の中で有益なものがたくさんあるということです。

日本人は多神教

 明治以来,神仏分離をして,国家神道も解体されて,近代社会を生んできた日本でありますが,決して今の日本の状態がそんなに幸せでないような気がします。それは,日本人が自分たちの帰属するところ,あるいはアイデンティティーと言われるようなものを失いつつあるような気がするからです。

 日本人は信仰心が薄い,無宗教であると平気で皆さんおっしゃいます。これは違うと思うんです。日本人は生まれたらお宮参りはするし,結婚式にキリスト教の教会に行くし,死んだら坊さん呼ぶ。こんな宗教的な民族はないわけであります。 ただ一神教の人から見ると,無節操ですから無宗教に見えます。でも日本人は多神教なんです。多神教的風土の中で生きてきている。聖と俗を行き来して,常に聖なるもの,俗なるものを側に置いてきた。これが日本人の宗教観であり,宗教です。

 修験道を通じて日本人が持ってきた多神教的なものを見詰め直していこうということで,世界遺産の登録の運動をしました。日本人は無宗教でないんだ,神と仏を常に同居させてきたところに,美しき日本の寄るべきところがあるかなという気がします。

 日本人は多様なものを認めてきた民族であります。実際に日本の中では,キリスト教の教会もイスラムの教会もケンカしません。何でも受け入れてきた日本人の良さを見つめ直す機会に今度の世界遺産がなればと思います。