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2004年4月2日(金)第4,018回 例会

雑誌月間に寄せて-ライターとリライター

眞島 弘 君

会員 眞島 弘

1934年大阪生まれ。関西大学文学部新聞学科卒業。56年産経新聞大阪本社入社。80年1月退社,同年2月「エンピツ工房」眞島事務所設立。現在(株)イグザミナ代表主幹。当クラブ入会 : 99年6月。PH準フェロー,準米山功労者。(出版業)

 元来,医者志望でしたが,高校卒業前に医者には向かないと気付き,新聞記者を目指しました。当時,関西で唯一新聞学科のあった関西大を出て産経新聞の入社試験を受けました。マスコミブームで受験者は5000人,面接に残った100人から35人が採用されるのですが,「本社の電話番号は」と聞かれ,手を挙げたのは私1人。手元の新聞の題字下に載っている番号を答えたまでですが,「記者は,そういう機転が大事」とほめられました。

情報は集まる所がある

 大阪本社の経済部に配属され,中央市場に朝の5時ごろから取材に出かけましたが,そこでモノの値動き,値段の形成を学びました。証券取引所で企業名を覚え,内容も勉強しました。穀物取引所では小豆相場が非常に荒れて解合になり,何とか記事にしたところ,短波放送に呼ばれて生意気にも相場見通しについてしゃべりまくったりしました。

 その後,機械を担当したが,重化学工業指向の時で,たまたま通産省の重工業課長と非常に親しかったのでしばしば東京に出かけ,いろんなデータをもらいました。それは欧米企業との技術提携の話が中心でしたが,提携の段取りを付けて双方を合意のテーブルに着かせ,記事にするわけですが,当時そういったたぐいのスクープは私の独壇場でした。

 取材方法というものは自分自身で編み出すものです。情報は集まる所にしか集まりません。安月給で縄のれんや赤ちょうちんにしかいけなかったはずですが,そこには情報がありません。一流人も来ません。そこで北新地のいろんな店に出世払いということで出かけましたが,年末にはものすごく勘定がたまった記憶があります。医者と一字違いの記者になり一途にここまでやってきました。

 最近,週刊文春の販売禁止問題をはじめ,週刊新潮でもゴタゴタしていますが,週刊誌だけではなく新聞でもそうで,情報というものははしかのように伝播していろんなことがテーマになるわけです。今回のような差し止めというケースは私もあまり知りません。いま訴訟問題を一番多く抱えているのは週刊新潮で未解決のものが300はあるはずです。次に多いのは講談社系の週刊現代など,東洋経済も意外に多く,週刊文春と続くようです。なぜか,新聞社系の週刊誌は少ない。

広報体制確立し窓口取材に

 こういうことを分析して気付くのは,新聞記者と一括りにしてしまいますが,中にはその通りに書くように言われても実際に書いてみたら違う内容になっている,つまり記事がうまくない記者もいるわけです。そういう記者たちが救われたのは,三井物産ビル爆破事件(1975年)で各企業がガードを堅くし,簡単に企業の建物内に入り込めなくなったからです。広報体制を確立したため,みんなが窓口取材を強いられるようになったのです。

 私などが金融を担当していた時は,銀行の本店へ行ってまず審査部で部長が資料に目を通しているそばに腰をかけ彼がトイレに立ったすきにそれを見ます。そこで関連するセクションを回って取材し最後に秘書室で確かめて書いていました。いまはそんな曲芸は絶対に出来なくなりました。広報でニュースリリースを用意して発表するわけですが,これをみんな一人前の記者の顔をして記事にしています。それはリライトしているだけで,ライターではなくリライターなのです。そういうリライターが非常に多くなりました。

 いま全国紙5紙で本当にしっかりと特ダネをモノに出来る記者は10人くらいしかいないと思います。後はみんなリライターになったのではないでしょうか。一方,週刊誌の特ダネは,新聞記者系ではない人たちが束になって取材展開し,かなり確度の高い情報を収集します。それを「アンカー」という新聞社のデスクに当たる人がまとめ上げます。しかし,それが常に雑誌の世界をいびつなものにしているのではないかと私は考えています。

相談相手になる学者を持て

 私自身,記者としてやってきたことは,夜討ち・朝駆け,それこそ24時間勤務体制,月月火水木金金でしたし,いまもさほど変わりません。いま自身で思うのは,自分は何事にも節度を持って接してきたことです。ただ,記者をやっているといろんなことを知るし納得のいかないこともある。例えば,大阪空港前の駐車場敷地を調べた時,ある団体の大物が好きなように使っていました。それを雑誌「財界」に厳しく書きました。また,ある財界のトップとは長い間冷戦状態が続きました。経済団体の会長になられた時のワンマンぶりを指摘したのです。作家の司馬遼太郎さんの「尻啖え孫市」の最後の記述に誤りがあるのを見つけ雑誌に書きました。司馬さんは早速それを認められ,本を書店から引き揚げて書き直された。すごいなと思いました。

 私が新聞記者になって非常に喜んで下さった方の中に宇野収氏の岳父・宇野賢一郎氏がおられます。その時に賢一郎氏が言われたのは,「医者・記者・芸者,これは大事にせないかん」でした。私はそこにもう1人,イーファンを付けたいと思います。それは「学者」です。医者・記者・芸者の情報と学者の見識。情報が錯綜する世の中で相談相手になる人は絶対に持つ必要があります。それが昨今のマスコミへの対応策にもつながると思います。